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瞑想コースを終えて【2019年版】

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11/19~31まで、京都にあるダンマバーヌという施設で、ヴィパッサナーという瞑想コースに行ってきました。

 瞑想自体は、ここ10年以上、定期的におこなっていますが、朝30分座って、心を静める、考えを整理するという短いものでした。今回、10日間とどまって、1日10時間以上座るという経験をしました。

まさに、自然の中で、1日のやることは「座る、食べる、寝る、散歩」以上。シンプル極まりないです。

 

 

コース中は、おしゃべり禁止、読書禁止、物書き禁止、他の参加者とのコンタクト禁止、もちろんネットも。外側からの情報をすべてシャットアウトして、ただ自分の内面とだけ向き合っていればいい。それがしやすいような、瞑想がしやすいような環境が保たれていて、とても有難い環境でした。

 

普段の情報社会の中にいると、1日どれだけの情報を探し求め、処理し、情報に溺れ、その情報によって、心があちこち彷徨うでしょうか。スーパーに買い物に行くと、必ず欲しかったもの以外の物も、買って帰るように、本当に欲しいものと、そうでないものの区別がつかなくなってきます。

 

今回のように、情報から遠ざかることで、本当に何が必要なのか、必要な答えは、自分の外ではなく、自分の中にあって、自分の中にその答えを見つけにいきます。ただし、自分の心が正直で、穏やかになる必要があるのです。

 

もしすぐ答えを欲しいと、望めば欲望が邪魔して、違う色眼鏡で、違う答えを正しいと思ってしまうでしょう。だから、心が静まるのを待ち、それを維持していくのが必要になります。求めてはいけない、じっと忍耐持って、待つ必要がありました。そうすることで、自然と必要なものが、心の底から浮かんできます。

 

 

じゃあ、「1日中座ってなにやってるの?」

「飽きずに、そんな長く座れるの?」

ふつうはそう思います。

こんなに長い間座ることを、わざわざ自分で選んで、そこに行く価値はあるのか?

 

以下に、今回の瞑想中の体験を書きました。

(注)瞑想の体験というのは、個人差があり、一人一人がそれぞれ違う体験をします。

だから、正解はありません。これは自分の記録のために書いたものです。

鵜呑みにしないようにしてくださいね。

 

■今回の瞑想体験

・最初の1日目は死ぬほど1日が長くてきつかった。それは、プログラムの流れを体験していないため。2日目以降から、徐々に慣れてくるにつれて、きつくなくなった。

 

・2~3日目くらいから、心の毒だしが始まって、それは波がありながら、6~7日目くらいまで続いた。毒だしっていうのは、例えば、瞑想中や寝る前、過去の記憶がはっきり鮮明に現れてきて、そして、自分の過去の行いに対して、罪悪感を感じてしまうこと。自責や後悔を感じながらも、それに蓋をせずに、冷静さを保とうとした。

 

・その一方で、2~3日目くらいから、心の浄化が始まって、瞑想中に心の静けさの中にいる心地よさがあって、それは瞑想後にも軽い酔いみたいにしばらく残る。だんだん集中が深くなるにつれて、瞑想時間以外でもいつも気持ちよくって、ずっと目を閉じていたくなる。

 

・ずっと座ることでの足の痛みは、3~4日くらいがピークで、6~7日目くらいまで。それ以降はあまり感じなくなった。

 

・4日目の早朝の瞑想終わって、外で、朝の新鮮な空気をたっぷり深呼吸した。気持ちよすぎて、まじで、ここは天国かと思った。

 

・瞑想後、晴れてたら、外のベンチで寝転がって空を見た。ずっと見ていられる。ただの空に感動、鳥のさえずり、山の木々の彩り、美しくて、美しくて、それだけで、すんごい幸福感だった。

 

・5感が磨かれてくること、心が静まることは、同じ体験。心の静けさを邪魔するような、強い執着、自分だけが良ければいい、といったエゴが、そういった思考が自然に起こらなくなってくる。

 

・瞑想中、感覚を観察することで、生まれては消えていくことを体験し続ける。痛みが発生しても、体をほんの少し1ミリ動かすと、それは消えていくのを体験した。最初はそれを不思議に思ったが、だんだんそれが当然となってくる。そうなると、ずっと長時間、座っていられた。

 

・ピンと張りつめる緊張感が持続する時間帯がある。ホール中、物音1つしない。大勢で座ってるのも、忘れるくらい。きっと、みんなの波長が一致するとき、波に乗ってるようなときがある。そんなときは、グループで瞑想する幸福感を感じる。

 

・飽きがくる時間帯がある。集中が続かない、ソワソワする音、いら立ちや、雑な空気がホール全体に感じる。でも、そんなときこそ、心を平静に保つことを学んだ。それはいい波が来るのを待つような感覚、でも、その時間も「呼吸を楽しんで待つ」ようにした。こちらの見方が変われば、周りの環境によって、心が乱れないのを体験した。

 

・集中は海に深く潜っていくのに似ている。体と海の区別がなくなって、意識の中に溶けていく。思考は電気を消すように、自由自在にカットできた。何も考えないこと(思考の沈黙)が持続する。自分の5感は遥か後ろに感じた。例えば音は聞こえる、でも、それはもう自分には影響は与えない存在になっていた。

 

・体の隅々まで意識が張りめぐらされ、自然の呼吸はやさしい風のように、自分の体の中を隅々まで流れていった。そのとき、まるで体の中がカーテンやオーロラのように、ゆらゆらゆれる。

 

・ 自分が座っていることを、よく忘れる。どっち向いて座ってるのか?、どんな風に座ってるのか?いまどこにいるのか?完全に忘れる。それは、夢から覚めて、一瞬、どこにいるのか、わからない状態に似ているが、それがずっと持続する。

 

 ・過去にしてきたことを、鮮明に思い出していた。何冊も本を読んでるような、映画を何本も見てるような、長い時間。それらを穏やかな心で眺めたら、すべての失敗、反省、つらいこと、悲しいこと、怒り、喜び、幸せ…は、自分が今在ることで、すべて体験できる。命の有難さに勝るものはない。「今の自分を自分が受け入れることができる」、だから、それは必要だったと、納得できた。両親に深く感謝した。

 

・あー僕は自然が大好きなんだなーって、はっきり実感した。

 

 

などなど、ごく1部だけですが。あげればキリがないくらい…。

10日間ずっと自分の内への旅をしてました。

ただ座ってるだけなのにね。

体験はすごく様々に自分に起こっていました。

飽きるなんて、全然ないない(笑)

体の内部が柔らかくなったような、心が軽くなりました。

 

 

■感想

ヴィパッサナー瞑想では、体の感覚を常に観察し続けることだけをします。1つの感覚が現れては消えていくのを、次々に経験していきます。「経験することで得る知識は、本物でそれは役に立つ知識」と教えられます。「あーなるほど、旅と一緒だ」と思いました。

 

誰かやTVや本などで、そこの情報をいくら得ても、それはそこに旅に行ったということにはなりません。そこで実際に旅して得る知識の1パーセントにもならないでしょう。それは現地で役にたつかもしれない。でも、旅にでたら、次々に起こる現地でのその場、その場の情報に勝るものはありません。そして、「これはこうだ」という法則が通じないことを身を持って経験します。

 

日常生活において、怒る、悲しむ、苦しむこと、たくさんあります。でも、それは、また現れては消えていく・・・喜び、幸せ、満足感が長く続くように願っても、また、それも現れては消えていく・・・その対象が長続きしないことを身を持って体験します。

 

じゃあ、空しいのかっていうと、そうじゃなく、心が穏やかになるときに感じるものは、何も得なくてもいい、何かにならなくてもいい、過去に過ちがあってもいい、今ただの自分に対して満足感や感謝する気持ちが湧いています。これは説明するの難しいので、ただ体験することで、わかることなんです。

 

 

  

実は僕は、こういう体験は、はじめてではありません。

タイでの瞑想コース、ベトナムでのサダナインテンシヴ(長時間の呼吸法)コース、

インドでのラマナアシュラムでの瞑想滞在、あと定期的におこなう断食の体験も、役にたってます。

 

 

  

 ヨーガや瞑想はプラーナ(体のエネルギー)を浄化するのが目的です。

それを言い換えれば、「いつも心穏やかに過ごすこと」です。

でも、なんだかんだ言っても、欲があれば、心は穏やかにはなれない。

自分は聖者でも、悟った人でもないんだから。

それにこの現実世界(物欲)を楽しみたいんだから。

 だから、こういった修行はたまにでいい。

部屋がちらかったら、片付けるように。

頑張らない、無理もしない、でもほったらかしにしない

それが、心をお世話すること。

1年に1回くらい受けると、心のお掃除にちょうどいいかな?って思いました。

 

 

 最近聞いた言葉で、とても印象に残った言葉があります。

 チベット僧のお言葉で

「心が穏やかであれば、何の心配もいらない」と・・・。

 

 

長文読んでくれて、どうもありがとうございます。

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